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「昭和は自由、令和は窮屈、窮屈なのはコンプライアンスのせい」は本当か? 『不適切にもほどがある!』の社会学(伊藤 昌亮) @gendai_biz - 現代ビジネス

はじめに

テレビドラマ『不適切にもほどがある!』が話題だ。昭和の時代の1986年から令和の時代の現在にタイムスリップしてきた主人公をめぐり、とりわけテレビ業界でのさまざまなやりとりを軸に、二つの時代を対比させながら進行していくこのドラマでは、「粗雑だけれど自由な昭和」と、「コンプライアンスに縛られ、正しいことをやっているけれど窮屈な令和」という対極的なイメージが示される。

「昭和は自由、令和は窮屈、窮屈なのはコンプライアンスのせい」というこうした構図は、しかし正しいものなのだろうか。そもそも昭和の社会と令和の社会は、どちらがどのように自由で、どちらがどのように窮屈なのだろうか。

こうした点をめぐってSNSなどでは議論が沸騰している。そこではコンプライアンスの鬱陶しさにうんざりし、昭和の社会を再評価しようとする人々と、その功績を認め、令和の社会を積極的に受け入れようとする人々との見解が分かれ、落としどころが見つからない。

〔PHOTO〕iStock

そうした議論では、しかし大事な点が見落とされているように思われる。そもそもコンプライアンスとは何か、というよりもむしろ、何だったのかという点だ。

この概念は、昭和と令和に挟まれた平成の時代に日本に導入されたものだが、ではそれは当時の日本社会に、どのような意義を持つものとして受け入れられていったのだろうか。また、その過程で社会のあり方をどのように変えていったのだろうか。そうした経緯に目を向けることなく、昭和の社会と令和の社会を表面的に比較するだけでは、建設的な議論にはならないだろう。

そこで本論では、コンプライアンスという考え方の成り立ちを再検討することを通じて、上記の問題について考えてみたい。

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