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【徳川家康 100の決断(38)】真田丸に苦戦…「大坂冬の陣」で家康が講じた一策は? - 産経ニュース

泰平の世を築いた徳川家康。その生涯はピンチの連続で、「どうしよう…?」と究極の選択を何度も迫られました。家康の決断を、100の問答でご紹介します。

決断75~78を読む

家康は大坂にいる豊臣秀吉の遺児・秀頼の勢力を削ぐことにも執心していきます。やがて家康は、豊臣家が奉納した方広寺(ほうこうじ)の鐘の文言に難癖をつけて大坂冬の陣を起こしました。ところが、真田信繁(幸村)が築いた「真田丸」などによって苦戦を強いられたため、家康は一計を案じます。

「大坂の陣400年 丸の内夏の陣 真田幸村と戦国武将たち」で展示された真田丸のジオラマ

<問い79>大坂冬の陣で、大坂城の堅牢さに予想外の苦戦を強いられた家康。なかなか大坂城を落とせない家康が決断した作戦とは?

掲示した3条件を豊臣方が拒否したため、家康は全国の諸大名に大坂城攻めへの参陣を命じました。このときの兵数は、徳川軍が約20万、豊臣軍が約10万といわれます。

秀吉が築いた大坂城は難攻不落の要塞で、10万の兵が10年は立てこもって戦えるように設計されていました。また、唯一の弱点だった城の南東部にも真田信繁(幸村)が出丸「真田丸」を築いて万全の態勢を整えます。そこで兵数で劣る豊臣軍は、牢人たちを集めて籠城戦に持ちこみました。

予想外の苦戦を強いられた家康は、いったん力攻めをあきらめ、なんとか講和に持ちこもうと一計を案じます。家康はイギリスから購入したカルバリン砲を大坂城の天守めがけて撃ちこみ、そこにいた淀殿たちの恐怖心をあおって講和を成立させたのです。ちなみに、砲撃する天守の位置は、豊臣方から寝返った片桐且元が指示したといわれます。 家康は講和の条件として、真田丸の破却と大坂城の堀を埋めることを認めさせました。

<決断79>なんとか講和に持ちこむ

ペーパークラフトでつくった「復元 豊臣大坂城」

<問い80>大坂城の堀の埋め立て作業において、豊臣方の担当部分があまり進んでいないと聞かされた家康。このとき家康が決断を下した指示とは?

大坂冬の陣の講和条件として、大坂城は本丸以外の堀が埋められることになりました。このとき、「豊臣方は外堀だけしか埋め立てを認めていなかったのに、徳川方がそれを無視して内堀まで勝手に埋めてしまった」という話をよく耳にしますが、実際には「内堀まで埋めるのは豊臣方も了承していて、外堀が徳川方、内堀が豊臣方の担当だった」という説が有力となっています。

豊臣方は、すでに73歳の家康がもうすぐ死ぬかもしれないという期待もこめて、時間をかけてゆっくり埋めていくつもりでしたが、外堀を埋め終えた徳川方がその余勢を駆って、「手伝いましょう」と内堀まで短期間で埋め尽くしてしまったそうです。

<決断80>手伝うという口実でさっさと埋めろ

天王寺公園の茶臼山にある家康と真田信繁の絵入りの解説板(大阪市天王寺区)

<問い81>大坂城の堀の埋め立ての完了を受けて、家康が決断した秀頼への対応は?

大坂城の本丸以外の堀を埋め終えた家康は、まもなく秀頼に対して「大坂城に抱えている牢人たちの追放」か「大和国(やまとのくに)あるいは伊勢国への国替え」の選択を迫ります。これに反発した豊臣方がいずれも拒否したため、そのことを口実にして家康は再び全国の諸大名に大坂城攻めへの参陣を命じました。 世にいう「大坂夏の陣」です。

すでに大坂城は本丸しか残っておらず、今回は籠城しても豊臣方に勝ち目はありません。そこで豊臣方の軍勢は大坂城を出て、徳川方の大軍に対して地の利を生かした戦術で挑んでいきました。

<決断81>国替えか牢人の追放かの選択を迫る

※産経新聞出版「家康100の決断」より

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